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日本図書館研究会特別研究例会(第339回)報告


日 時:2018年6月3日(日)10:00〜11:30
会 場:同志社大学今出川キャンパス明徳館1番教室
テーマ:情熱と革新の人・小野則秋先生と続く人たち
発表者:渡辺信一氏(日本図書館研究会名誉会員,元同志社大学大学院教授)
参加者:67名

小野則秋先生について
 1906年に大分県の耶馬溪町で生まれた。1919年に私立跡田中学校に入学するも,病気の
 ため中途退学となった。その後,独学で検定試験を受け,師範学校の教員免許状を取得した。
 1933年から福岡県八幡市立図書館に司書として勤務したのち,1935年に同志社大学図書
 館司書に就任。以降1971年に定年退職するまで図書館主任や整理課長を務めた。1952年
 からは文学部講師も兼務した。1960年より佛教大学の非常勤講師となり,同志社を定年退職
 後専任となった。その後教授となり,1973年から図書館長も務めた。以上の経歴からもわか
 るように,同志社大学と佛教大学に縁の深い人物であったといえる。学会活動としては,193
 5年以降青年図書館員聯盟に所属し,その理事や研究委員として「日本目録規則」や「日本件名
 標目表」の編纂に携わった。また,1947年から4年間,京都市議会議員として京都市内の学
 校図書館の設置を推進した。歴史への造詣も深く,日本文庫史に関する著作も刊行された。
 1961年に刊行された同志社大学図書館学会の紀要において,小野は研究会発足の動機として
 「沈滞した図書館,枯死に瀕した老木図書館をして起死回生の手段は何か。これが当時私の脳裏
 を支配した最も大きな問題点であった。」と述べ,図書館員の意識の昂揚と図書館技術の向上化
 を図るために研究会を結成し,定期的な研究活動を実施したとしている。当時の会員は総勢80
 名を擁し,同志社図書館以外の会員が33名に達している。その後も1958年には竹林熊彦先
 生を招いての講演会や,ドイツマールブルック大学図書館長エーニッヒ博士を囲んでの座談会な
 ど,精力的な活動が続けられた。また,国際図書館協会連盟国際目録会議,日本私立大学連盟主
 催の図書館研究集会,西日本図書館学会総会・研究発表会,京都私立大学図書館研修会など,様
 々な研究集会への会員の参加を通して全国的ないしは国際的視野から図書館学の研究に打ち込ん
 でいた様子がうかがえる。これらも小野の大きな業績と考えるべきであろう。
 同志社大学図書館学講習所は1946年から6年間に渡って開所され講習会が実施されたが,終
 戦後虚脱状態に陥っている日本の図書館の状況を打破するためには図書館員教育が突破口になる
 という認識が開講に繋がっており,青年図書館員聯盟時代の熱い思いが込められていたと思われ
 る。かつて小野の国立国会図書館批判に激しく反発した中村初雄が,後年,小野を「革新と情熱
 の人」という表現で称賛した所以でもある。
 1937年に小野は「大学図書館論」を発表した。これは,大学図書館を正面から論じた論文と
 しては,戦前におけるほとんど唯一のものである。この中で小野は,「大学図書館の本質的究明
 は,そのまま大学教育の本質的究明でなければならない。」と述べ,官僚や技術者の養成を目的
 とした学術知識のテキストと講義中心の教授方法であった戦前の状態から「攻究の教育」への転
 換を主張し,「攻究の教育」が行われる場が大学図書館であるとの認識を示した。戦後の大学図
 書館理念を先取りするものであったといえよう。
 佛教大学図書館長時代に,図書館報『常照』において自らの半生を振り返っている。八幡市立図
 書館に主任司書として就職した翌年,図書館予算削減に対して市長批判の論評を図書館報に掲載
 したことがきっかけで辞表を提出し,同志社大学図書館に骨を拾われて,それから36年間,完
 全に図書館人として書物相手の道に専心したと語っている。若いときに経験した挫折が,その後
 の小野の精力的な活動に影響を与えているのではないかと思う。今回小野則秋の生涯と業績を振
 り返ってみて,改めてその偉大さを認識した。

吉田貞夫先生について
 1924年に滋賀県で生まれた。1950年に同志社大学文学部英文学科を卒業後,滋賀師範学
 校附属中学校(後に滋賀大学学芸学部附属中学校と改称)に勤務。1953年に同校を退職後,
 米国アトランタ大学大学院において図書館学を学び学位を取得。1959年から同志社大学文学
 部内に開設されていた図書館司書課程の科目を担当する嘱託講師となり,翌年には同志社大学文
 学部の専任講師として図書館司書課程を担当することとなった。1974年に同志社大学を依願
 退職し,滋賀大学経済学部教授となったが,その後も1988年まで同志社大学の嘱託講師とし
 て司書課程科目を担当した。1989年に脳腫瘍のため逝去,享年64歳であった。
 業績の中で特に顕著なものとしては,図書館の機械化・コンピュータ化に関するものが挙げられ
 る。その概念が日本でまだほとんど知られていなかった時代から,機械化の実現に向けての道筋
 を考察するなど,先駆的な研究を行っていた。1976年に刊行された『情報組織概説』は,そ
 の分野における代表的な書物である。この中で吉田は,図書館学を従来の図書の管理だけにとど
 まらず,情報学や情報管理と密接に結びつけられた「情報システムの学際科学」として捉えた。
 また,L.A.テッドが書いた原著を田口瑛子とともに翻訳した『コンピュータ・ベースの図書館シ
 ステム入門』では,図書館のハウスキーピングだけではなく,SDIサービスのような先進的な概念
 についても触れられている。まだ図書館がコンピュータ化することによってどのように変わってい
 くのか将来像が見通せなかった時代に,このような図書を日本に紹介した吉田の見識眼は,高く評
 価されるべきであろう。
 吉田は同志社大学図書館司書課程における最初の専任教員であり,小野則秋とともに司書課程の基
 礎を築いた点に功績がある。司書課程の授業に先端の情報技術を取り入れるなど,様々な新しい取
 り組みを行った。2012年度から司書課程で「図書館情報技術論」が必修科目となったが,その
 30年前から吉田は同内容の科目を展開している。これも吉田の先見性を証明するものと言えよう。

青木次彦先生について
 1922年に京都市で生まれた。1944年に国学院大学国史学科を卒業後,京都大学国史研究室
 嘱託を経て1948年に同志社に入社し,主に大学図書館で勤務した。閲覧課長在職中の1970
 年に,図書館司書課程担当の専任教員として文学部文化学科の専任講師に任用され,1988年に
 定年退職するまで図書館司書課程の教育と研究面で大きな貢献をした。
 大きな業績としては,1975年創刊の『同志社大学図書館学年報』がある。司書課程の活動報告
 と論文発表の場及び卒業生のコミュニケーションの手段を兼ねて刊行され,現在まで続いている。
 本誌の刊行については,これまでの学外における司書課程履修者の実績もさることながら,青木の
 人柄や経営手腕に負うところも大きい。

私,渡辺信一について
 1934年に沖縄県で生まれた。1958年に同志社大学文学部英文学科を卒業後,京都府立図書
 館に勤務。その後高等学校の英語科教諭を経て,ハワイ大学大学院に留学し学位を取得した。19
 72年より京都産業大学専任講師として図書館学及び英語を担当。1975年に吉田貞夫の後任と
 して同志社大学文学部専任講師として着任し,2005年に定年退職するまで図書館司書課程の教
 育を担当した。同志社大学以外では,佛教大学の非常勤講師や放送大学の客員教授などを務めさせ
 ていただいた。日本図書館研究会においては理事として『図書館界』の編集委員長などを担当させ
 ていただいた。また,従来は東京地区の教員から選出されていた日本図書館協会の教育部会長を2
 期に渡って務めさせていただいた。
 私が同志社在籍中に行ったこととしては,司書課程において様々なゲストスピーカーを招いての講
 演を行ったり,中部地区や東京地区の図書館見学会の開催,卒業生の協力の下に行っている図書館
 ガイダンスなど,これらは現在も引き続いて行われており,学生の図書館に対する興味を高めたり,
 図書館への就職を目指す学生の情報収集の機会として役立っているのではないかと思う。

 講演終了後,大城善盛氏と深井耀子氏から渡辺先生の業績や人となりについての紹介があった。質
 疑終了後は引き続き講演会場で茶話会が開催され,歓談のひと時を過ごした。
                                                             (文責:田村俊明 紀伊國屋書店)