TOP > 『図書館界』 > 53巻 > 2号 > 座標
この春,混雑している繁華街の路上で,すれちがいざまに,むかしお世話になった知人に出会った。40数年ぶりの再会だけに,人違いかもしれないと声をかけるのを一瞬ためらったが,向こうも「ばんばさん?」と顔が綻んだ。お互い顔も名前も忘れていなかった。
高校2年の夏,1年近くの入院生活を余儀なくされたときに隣の病床にいたのが知人である。かれはおじさんにみえたが,多感な少年の“青春の挫折”を兄のように親身になって案じてくれた。病室には,まだテレビはない。楽しみといえば,ラジオと貸本屋(巡回)だけである。古典音楽と本好きのかれは,その孤独の空間のなかで「いかに考えるか」が大切だと諭した。
ちょうどこの頃,石原慎太郎,大江健三郎等の戦後文学の旗手たちが颯爽と現れ,世代的共感を呼んだ。巡回の貸本屋が待ち遠しく,貪るように読んだ。〈本の世界〉という孤独の空間に存在感を発見したときである。
それから約半世紀がたつ。いまや子どもから高齢者までが,孤独の空間の存在感を古典音楽や〈本の世界〉ではなく,インターネットや携帯電話の〈ITの世界〉にもとめている。〈メル友〉と呼ばれる友とつながっていることで,その孤独の存在感を確かめている。かれらは,〈ITの世界〉という新しい孤独の空間を発見したのだろう。
だが,その感覚は,私にはわからない。
断っておくが,何もここで,インターネットや携帯電話の技術の進捗そのものを否定しようというのではない。ただ,そこにつながっていることで,かれらが何を考え,何をしようとしているのかが理解できないで,かれらのように〈ITの世界〉を 信じられないだけである。
よくIT革命といわれるが,冷静にメディアの歴史を顧みれば,その変化は,ほとんどこれまで新しいメディアが現れるたびに繰り返されてきた単なるメディアの横滑り現象にすぎないように映る。たしかにその利便性にはみるべきものがあるが,それですべてが変わるわけではないだろう。
IT革命で印刷メディアが衰退し,読者離れが加速するというが,これだけ多様なメディアによって現実が露出されると,かえって,〈本の世界〉という孤独の空間の存在感が,かけがえのないものになってくる。
ノンフィクション作家佐野眞一が,書店,出版者,図書館,読者という「本」の世界を串刺しにしたときに何がみえてくるか(『だれが「本」を殺すのか』)として,「本の貸し出しとレファレンスこそ図書館の使命と信じて疑わないような図書館人をみていると危惧をもつ」と読者離れの犯人探しに図書館を巻き込んでいるが,かれをして,敵の正体を見誤っている。だれが〈本の世界〉を捨てようとしているのか。
誤解を恐れずにいえば,犯人は〈ITの世界〉で勝ち組になろうと野心をもつ仮面をかぶった権威主義者である。
さしあたって館界でいえば,電子本や電子図書館の先端技術を崇拝し,これまでの読書=読者が大きく変容あるいは衰退するという願望を,あたかも実態があるかのように論議し,図書館の構造改革を唱える研究者や図書館員がそうである。
いうまでもなく,〈本の世界〉は,「人類の記憶を保存する一種の社会的メカニズム」(P.バトラー)として,その孤独の空間の身体的共鳴性において,むかしもいまもいささかも揺るぎない現実的存在感をもたらしている。したがって,子どもから高齢者に至る読者のだれもが〈ITの世界〉の勝ち組になろうとしているわけではない。もし,〈本の世界〉に危機があるとすれば,読者が変容していることではなく,読者が変容させられている現実社会の不気味さに対し,だれもが口を噤んでいることであろう。
おもいがけない知人との再会である。かれは白髪が増えただけで,手のひらの温もりは少しも変わっていない。
(ばんば としあき 理事・甲南大学文学部)