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《座標》
『図書館界』66巻4号 (Nov. 2014)

「忘れられる権利」をめぐる雑感

前川 敦子

 プライバシーに関する新たな概念として「忘れられる権利」(right to be forgotten)という言葉を次のように耳にするようになった。

 EUで個人情報・プライバシー保護法制改定として2012年に提案された「EU個人データ保護規則案」において,「忘れられる権利および消去する権利」(right to be forgotten and right to erasure)として明文化された。(ただし同案の審議過程で2013年には「消去権」に修正されている。)

 2014年5月,欧州司法裁判所は,Googleなどの検索企業は,プライバシー保護の観点からEU市民の過去の個人情報へのリンクを一定の条件下で検索結果から削除すべきとの裁定を下した。スペイン人男性が,自分の名前で検索すると過去の社会保障費滞納による競売記録を報じた新聞記事へのリンクが表示されるのはプライバシー侵害だとしてGoogleに記事へのリンク削除を求めた裁判に対する裁定である。Googleはこの裁定を受けて,EU内に限定して個人からの削除申請フォームを設置した。10月現在で15万件・50万弱のURLの削除依頼があり,うち約60%を削除済だという。

 当面はEU内での法制に限られる一方,プライバシーに関する考え方として日本にも影響を持つと思われる。図書館の視点からは記録・データそのもの(たとえば過去の新聞記事)の保存と,そこへのリンクがどう違うのかという点が気になった。

 これまでにも図書館の資料に関して名誉毀損あるいは人権侵害とした提訴の事例はある。2008年,コーネル大学卒業生が図書館の大学新聞記事デジタル化によって過去の窃盗事件が明るみに出たとして,大学図書館を名誉毀損で訴えた事件。またデジタル化資料ではないが,2007年に千葉県東金市で,親族の逮捕記事が市立図書館で(郷土記事として)赤枠で囲まれているのは人権侵害および名誉棄損として訴えた事件。これらはいずれも原告が敗訴している。こうした事例は「忘れられる権利」が浸透するにつれて変化するのだろうか。

 2014年7月,英国図書館(British Library:BL)のウェブ・アーカイブ事業部長Helen Hockx‐Yu氏は,この裁定に関連して“A right to be remembered”(記憶される権利)という記事を同事業のブログに載せている。

 この中でHockx‐Yu氏は「データではなくリンクだけ」(Links only, not data)として,裁定は新聞記事データそのものではなく,Googleが個人情報を含むウェブサイトに関して行う「リンク」について下されたことを強調し,法定納本の目的は,英国のインターネットのスナップショットを国のデジタル遺産として保持し「記憶される権利」を守り保障することだとした。法定納本によるウェブサイトアーカイブは,法定納本図書館内のみの利用に限定され,コンテンツは検索エンジンの対象にはならない。このことで個人の潜在的被害や影響を大幅に減らせる。結論として今回の裁定によって現在の事業方針に大幅な変更は行わない。ただし,特に個人名をベースにする索引・目録・情報源の発見に関しては,実践と手続きの面から再考するとし,記録自体を保存することの重要性を示す一方,アクセス方法への配慮があり得る見解を示している。

 以前なら時間の経過とともに見つけられなくなり,忘れられた事象が,インターネット時代には容易に保存・検索される。自らが公開した情報であっても,時間が経過しても取り消すことができない。一方,保存されるべき記録には,一部の人を困惑させる資料が必ず含まれる。そのことが利用を妨げる理由にはならない。

 2012年「EU個人データ保護規則案」提案時,欧州委員会のレディング副委員長は次のように述べた。

・忘れられる権利は絶対的な権利ではない表現の自由や報道の自由に優先するものではない。

・データベース内のデータを保持する正当かつ合法的な利益がある場合がある。たとえば新聞のアーカイブは良い例である。忘れられる権利が,歴史を完全に消去する権利を意味しないことは明らかだ。

 変化する社会の中で,答えは「ある」のではなく,それぞれの立場から考え,よりよい答えを目指す必要があるのだろう。

(まえかわ あつこ 理事・神戸大学附属図書館)