自己規制は表面化しにくいものの,図書館員の専門職倫理や図書館の存在意義との関連で重視されてきた。一方,公権力や住民からの異議申し立ては表面化することも多く,知的自由にまつわる事件として蓄積されてきている。そして住民グループと図書館が対立する場合,これには2つの型がある。
まず住民グループと図書館全体の対立で,多くの事件では図書館は資料の既存の扱いを変えていない。ただ少数ではあるが,住民グループが市議会や市長に訴え,結果として図書館が市議会や市長に屈したり,極端な場合は市議会が図書館理事会を解散させるといったこともありうる。
いま1つの型は,住民グループと図書館理事会が合流し,図書館長以下の職員集団と対立する場合である。図書館理事会は図書館の管理機関なので,図書館長は妥協して既存の扱いを変更する。館長が既存の扱いを固持しようとすれば,自分の辞職や罷免を意識しておかねばならない。
いずれにしても,資料選択やその結果としての所蔵資料をめぐって,これまで館長を含む職員集団のなかで激しい対立が表面化した場合はなかった。
ところで2000年2月5日,ミネアポリスの最有力新聞『スター・トリビューン』(Star Tribune)に1通の投書が掲載された。この投書によると,ミネアポリス市立図書館中央館の利用者が頻繁にとおる場所にインターネット端末が置かれており,利用者がポルノを見ている。そして誰もが目につくところにプリンターが置かれ,ポルノが打ち出されている。この投書者は図書館員と警備員に対処を求めたのだが,インターネット上の資料は修正第1条で保護されており,対処のしようがないとの返答を得た。そこで投書者は図書館が何らかの制限措置をとるように主張したのである。
この投書自体は特筆すべきことではない。こうした苦情の申し出は全国各地で生じている。
しかしこの投書が図書館職員の投書を誘うことになった。
中央館の職員約140名のうち47名が署名した投書が,2月12日の同紙に掲載されたのである。その内容を一言でいえば,アメリカ図書館協会や同館幹部はインターネットへのアクセスの制限を許されない検閲としているが,現場の第一線にいる職員はこうしたかたくなな姿勢を受け入れがたいというのである。そして図書館はもはや公的な場所にふさわしくない場になっており,利用者や職員にたいして性的に敵対的環境にあると主張したのである。
続く2月22日号には同紙の記者が筆をとり,職員や館長の言,それに同館で生じた具体的な事柄,周辺の公立図書館での措置などを報じた。概して何らかの措置を求める内容になっている。
こうした動きをうけて,2月26日には図書館理事会が応答した。そこでは図書館は修正第1条の保護下にあるあらゆる情報の提供を使命とする,子どもの利用の責任は親にあるという原則を確認している。同時に,子どもにたいしては,子ども向けの良質のウェブサイトを作成していると主張した。これらはアメリカ図書館協会の方針に忠実に沿ったものと
いえる。
5月4日の『スター・トリビューン』は,図書館職員が館長と理事会に厚さ3センチにもなるポルノ画像のプリントアウトを提出したと報じた。これはコピー機,机などに残されていたものを集めたものであった。そして単なるヌードの域を逸脱していると指摘するとともに,性的に敵対的職場環境を非難する意見書を添えていた。理事会は3センチのプリントアウトを見せつけられたとき,何の即答もできなかったという。
また7名の図書館員は連邦の平等雇用機会委員会(Equal Employment Opportunity Commission)にハラスメントとして訴えた。さらに5月5日の同紙によると,市議会でもこの件が取り上げられ,警察も巻き込むようになってきたという。
こうした動きを受けて,5月17日の図書館理事会はインターネット端末の利用制限を強める方針を採択するとともに,図書館理事長と館長が謝罪声明を出してウェブ上でも公開した。その文言は,「図書館のコンピュータで不快な画像を不本意に見た人におわびする。この問題を解決し,図書館職員,利用者,コミュニティのために好ましい長期的解 決に達するように最大限の努力をする」となっている。
図書館での資料・情報提供に関して,館長と職員集団が対立し,それが大きくメディアで取り上げられたのは,歴史的にみても珍しいことであろう。これはまたインターネットの扱いをめぐる知的自由の問題が,従来よりも複雑化していることを示している。また従来の図書検閲事件と異なり一過性に終わらないことも示唆している。
なおインターネットによって,『スター・トリビューン』のオンライン索引を用いて,こうした記事が容易にフルテキストで収集できるようになった。これは研究上好ましいことである。
従来は外国の文献を種本にしたり,外国の紹介自体が論文という名の下で掲載されたりしてもいた。それが資料や情報が容易に入手できること,また比較的容易に外国を訪問できることで,筆者は単なる知識や紹介ではなく,そうした知識を前提としての見識とか解釈とかで力量が問われる時代に入ってくると考えたりしていた。
しかしどうもそうではないようである。むしろ知識を他人よりも一刻も早く握り,それを要領よく発表するということ自体が重視される傾向にあるのではないだろうか。そこでは見識や批判的検討よりも,単なる知識とそれを獲得する技術が重要性を高めていく。
(かわさき よしたか 京都大学)