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《コラム http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/nal/》
『図書館界』50巻1号 (May 1998)

ネットの遠近法

村岡 和彦

日図研ホームページ(以下、HP)で、研究委員会からのお知らせの発信の担当を させていただいている。
このコラムの前々回で、松井さんがHPの双方向性に着目し会員と編集部の交流の場にできないかと提案し、前回では北さんが、ネットというコミュニケーションの道具をごく普通に使っている例を挙げさらに深い展開の可能性を示唆している。北さん言うところの「官報」編集を担っている一員として、その可能性を別の面から考えてみたい。

ネット上のコミュニケーションの特徴について、北さんは「速報性とインタラクティブ性」を挙げている。コミュニケーションの質を考えるならば、「広くて狭い」という特性もあるように思う。ここで言う「広さ」とは地理的なものであり国境をも越えたつながりを指す。そして「狭さ」とは、たとえ国境を越えたにしても、コミュニケーションが成り立つのは、結局のところ同じ属性・興味・利害を持つ者同士に落ち着くと言う意味での「狭さ」である。例えば最近私は次のような体験をした。

この2月22日に元ニューヨーク公共図書館のオーガスタ・ベーカーが亡くなった。児童図書館員としてまたアフリカ系アメリカ人図書館員として輝かしい経歴を持つ彼女であるが、日本の新聞やテレビがその死を報じるような「有名人」ではない。しかし私は逝去の翌日にはその訃報に触れていた。アフリカ系アメリカ人図書館員を対象とするネット上の会議室に参加していたからである。従来ならば、月単位で発行され船便で届く業界誌の記事によって、逝去から数ヶ月後にやっと訃報に接っしていたことだろう。自分なりの黙祷を捧げながら、この情報の回りの早さにはめまいを覚えた。

だがもちろん、世の中全体ではベーカーの訃報に特別の感慨を持たない人の方が多い筈だ。ネットはたしかに迅速かつ広範に情報を伝えうるが、それだけなら単にノイズが増えただけの話だ。ネット上の情報というものも、その「中身」を共有する土台があればこそ易々と国境をも越えて活かされる。インターネット(通信手段)というものはその「コンテンツを共有する土台」を、従来より広い地理的広がりの中でも担保するインフラ技術だと言えるのだろう。無秩序に設置される個人・団体のHPも、関連するもの同士がリンクで結ばれることで、「広くて狭い」特性を深めていく。このように限定された情報を狭い(適切な)対象に対して発信しあうという機能は、従来のメディアと特に変わらない。ただ地理的な隔たりを越えて、桁外れに迅速、低コストかつ簡単に送信可能な点が従来と異なるだけだ。

一方、対面のコミュニケーション同様、ネット上のコミュニケーションも他者との適切な距離感によって初めて成立するのだが、この部分では、従来にない程の広がりと速さを持っているがゆえの距離の取り方の混乱が現実に起こってはいる。例えば、多くの図書館員が加入している電子会議室で「森耕一氏および関西の図書館界は司書のグレード制に賛成である。」と大真面目に書いた事例があった。また阪神大震災に際して「善意から」現実には存在しない支援要請をネットに流し、それに反応した不特定多数の人や受入側を混乱に巻き込みながら、罪の意識のかけらもない事例を私は目の当たりにした。情報をネットに流すことがどれほどの影響力を持つか、当人はまるで理解していなかったのだ。こうした意味では、ネット上のコミュニケーションというものが未熟であったり胡散臭いものであるのは事実だ。ただ従来からある社会にしても、殺人もあれば汚職・詐欺もある、相当胡散臭い世界ではある。

日図研HPに話を戻すと、ブロックセミナーの開催が意義有るものであるように、地理的制約を越えうる道具としてのネット上の意見交換の場の構想は魅力的なアプローチである。また「広くて狭い」という特性は日図研のような団体にとっても適していると言えるだろう。ネットの胡散臭さについては、適切な編集者・議長を置けばよい。ただ、多様な人が覗くネット上で過不足なく発言するには、発言者自身にそれなりの馴れは必要だ。また目立ちたがり屋だけの場になっても仕方がない。多くの会員がネットに馴れるための時間が必要だが、いずれにしろネットを使う経験を重ねる中でしかクリアできない問題であると言えるようだ。
アクセスが増える中で「官報」が豊かなものに育っていければと願う。                

(むらおか かずひこ 大阪市立中央図書館)