いよいよ11月17,18日,日図研創立50周年記念大会を迎える。会場,神戸国際会議場へ全国から集い,半世紀の蓄積と,未来とを語り合っていただきたい。
日図研は「関西のもの」と見られがちで,「東京の」日本図書館学会との合併話が寄せられたこともある(石山洋.本誌23巻2号:1971.7)。確かに事務局は創設以来京阪奈から出ることなく,前身の青年圖書館員聯盟(以下,青聯)も大阪の間宮商店にあった。だが今は会員の過半数が近畿外の人達である。
このように歴史には意外性がある。東京で一貫編集されて来たと考えられがちな『図書館雑誌』(JLA)は,1930年から敗戦前まで,間宮商店に委託されていた。また,全国的な整理のツール『日本十進分類法』(NDC),『日本目録規則』(NCR)は青聯関係で開発された。日図研の先輩たちは館界全体の知恵の大きな部分を担っていたのである。ただ暗黒の1943年,紙の配給を停止され機関誌『図書館研究』を失った。結果は解散。ここに,地方生まれの研究団体の実力と悲哀を二重映しで見る思いがする。
1946年の11月,日図研創立総会は新時代の「宣言」を採択した。その,壮烈な結語の部分を見ておこう。
國家の方策皆無にして在来の圖書館協曾の無力は如何ともすべからざる状態にあり(中略),今や圖書館運動は澎湃として各地に萠しつゝありて,まさに是NDCの實施,NCRの普及の好機にして聯盟16年の歴史に省みて今後益々吾々の責務は多事ならんとす。吾々にはこゝに再び20年の昔に歸り青年圖書館員聯盟発祥當時の熱と意氣に燃えて清新なる一大圖書館運動の第一歩を踏み出さむとす。乞ふ満天下の圖書館人諸君よ,吾々圖書館事業の革新と啓蒙の為に愉安の衣を脱ぎて來り参ぜよ。半世紀の経過を痛感させる用字・文体であるが,中身は清新である。そして味わい深い。この研究会の前身・青聯の業績を評価し,書誌規準の標準化への貢献,倒れた日本館界の再建を誓っている。また図書館運動を起こそうとする熱気を漂わせている。
戦後,図書館法の制定があり図書館団体にも民主化が及んだ。だがそれは東京中心に進んだと言える。たとえば青聯等の至宝NCR,NDCは「宣言」の意図どおり全国的な書誌規準となったが,所管は日本図書館協会(JLA)の手に移った。逆に,東京に委ねることで全国的な基準となり得たのであろう。だが中央に頼るだけではどんな領域にも欠けが出る。
“整理偏重”を排し,貸出と資料費の伸張を唱えた『中小都市における公共図書館の運営』(1963),『市民の図書館』(1970)は清新な原典となったが,その一方で目録の崩壊が進んだ。心有る人々は目録を維持するための合理化を求めた。そうした時期に日図研に集う人々が開発したのが「記述独立方式」である。これは日本の諸マークが今も準拠するNCR新版予備版(1977)の実質的な原盤となった。
ただ目録規則策定の全国組織に関東外の人が迎えられた例は稀である。逆に,図書館政策特別委員会は,成員上から見れば近畿系である。それは“図書館員の日常的な実践との関連を大事にし,現代の図書館が当面している課題とのとりくみを原点に据えた(塩見昇.本誌23巻3号:1971.9)”日図研の力を活かしたものといえる。関西人には喜ばしい。だが一層に貴重な例は,近畿で発し関東を包み込んだ図書館の自由に関する調査委員会であろう。電子会議の現代,東西の距離感はない。「中央」への固執や,「地方」の縄張意識等は無意味である。今は,青聯の先人達のような,組織や地域を越えた活動が必要である。
50周年記念大会では,史実を現代・未来との接点で聞きたい。さらに世界に視界を開き新世紀を探る。こうした意図から国際講演会を催す。招待講演者のマイケル・ゴーマンは“資料の収集とその提供体制の整備が将来も図書館の根幹”だとLibrary Journalの1995年9月15日号で述べた。彼は英国原籍だが,西部フレズノの辺鄙から全米(ALA副会長)へ,更にAACR2編者として国際舞台へ飛翔した。今一人の呉建中は英国でPh.Dを取った上海市の少壮の副館長で,将来が嘱望されている。
日図研は今,汎太平洋に発信する。この未来への架橋が先人達の“第一歩”に発することを深く記憶にとどめたい。
(しほた つとむ 桃山学院大学)